‘未分類’ カテゴリーのアーカイブ

楽天優勝

2013年11月5日 火曜日

 山旅とはまったく関係無いが、今年のプロ野球日本シリーズは、4勝3敗で東北楽天ゴールデンイーグルスが優勝した。3勝2敗で仙台に巨人を迎え撃った第6戦は、今期無敗のエース田中を擁し必勝を期したが大方の予想(期待?)を裏切って、2点のリードをひっくりかえされて負け。田中は9回、160球を投げたが初の黒星。最終第7戦は互いに必勝のエースを立てたが、序盤から楽天が小刻みに加点。リリーフ陣に不安を抱える楽天は、先発投手陣のリレーでつなぎ、3点リードの9回は前日160球を投げた田中が登板、2人の走者を出したが最後は3振に仕留め、楽天の創立9年目での初優勝が決まった。星野仙一監督は4度目の挑戦で初の日本シリーズ制覇。
 私はもともとアンチ巨人だが、それを抜きにしても今年は楽天が優勝して本当によかったと思う。巨人が優勝すればそれは東京の話。あらゆる面でアドバンテージを持つ大都会にとってみれば、うれしいことではあるが数ある出来事の一つ。しかし震災と原発で痛手をおった東北をチーム名に組み込んだ楽天が優勝したとなると、東北の人にとってはもちろん日本人にとって一大事。どこをみても面白くないことの多い中で、久々の痛快な出来事となった。

カッコウ

2013年5月31日 金曜日

朝起きるとカッコウが鳴いている。電線や高い木の梢などに止まってあたりを睥睨しながら、尻尾を高くあげて鳴く。鳩ほどの大きさだがこちらのほうがだいぶスリム。
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雪形(鹿島槍の獅子)

2013年5月15日 水曜日

連日の夏日で、山はだいぶ黒くなりました。鹿島槍の南壁を駆け下りる獅子。わかりますか。
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涸沢談話会

2012年7月9日 月曜日

涸沢に行った。「涸沢談話会」というのがあって、山の話が聞けるというので参加した。

最初の話題は、「涸沢カールと氷河 地球の歴史」。涸沢のカールができたのは、2万年前。氷河は岩石を含んで斜面を流れ、末端に運んできた岩石を堆積させる。これをモレーンという。涸沢ヒュッテは、丸山というカールの底の小高い丘の上に建っているが、ここは涸沢の氷河が作ったモレーンだという。7万年前にも氷河期があって、その時は、槍沢も涸沢も氷河に覆われていて、末端は横尾の岩小屋あたりまで伸びていた。

もう一つの話題は、「日本アルプスの山小屋建築に関する調査報告」。厳しい日本の山岳環境に建つ山小屋はそれぞれの立地条件に適応するべく様々な工夫を凝らしている。また出来たときから辿ってきた歴史を内蔵している。涸沢ヒュッテは、昭和26年に出来た新しい小屋だが、カールの底にあるから宿命的に雪崩との闘いを強いられてきた。20mにも達する積雪の重さに耐えるよう、11月に小屋を閉める時、室内に補強の柱を立て、周囲には囲いを巡らす。そのための木材の料は小屋そのものより多い。その木材は、営業期間は屋根の上のテラスに変身する。

涸沢に来たのは、8年ぶりくらいだ。上高地は夏の装いになりつつあるが、涸沢はまだ冬が残っている。それでも本谷橋から上の登山道には、花が咲き始めていた。

信州大学山岳科学総合研究所友の会の企画。いつも日程が合わなかったが、参加出来てよかった。研究所所長の鈴木啓助先生の、「山の魅力を多くの人に知ってもらえたら、山をもっと大切にするようになる」という言葉がとても印象に残った。

横尾集合。参加者は45名本谷橋から登りが始まる。雪が解けると花が咲き始める。サンカヨウ

モレーンの上に建つ涸沢ヒュッテ。稜線はガスの中。このあと雨が降り始めた。

次の朝は稜線が見えた。カールの底に建つ建物を石垣で護る

雨の中を下山。キヌガサソウベニバナイチヤクソウ

朋有り遠方より来たる

2012年6月28日 木曜日

岡山からA君が来た。A君は小学校5年の時同じクラスだった。昨年6月、もう一人の小学校からの友達、F君が偶然にA君の消息を知ることとなりはるか昔の3人の関係が復活したのだ。昨年の9月、A君は細君とともに遊びに来た。ちょうどNHKの“おひさま”が放送されて安曇野はブームになっていた時だ。しかしその時は雨が降って山は見えず、わさび畑も松本城も傘をさしてびしょ濡れで歩いただけだった。

5月には、F君夫妻が遊びに来た。この時は良い天気で、青空に白い山がそびえる安曇野の春の風景に二人は夢中になった。岡山県に住む彼らは見たことのない風景だったのだ。扇沢からアルペンルートで室堂に上がり、10mを越える雪の回廊を見た彼らの興奮は絶頂に達した。F君は帰ってA君にその話をした。「君の行った時は雨が降ったが、ぼくの時は晴れて、白い山がみえて・・・。」これを聞いて収まらないA君は今度は一人でやってきたというのがことの次第である。

心配していた天気は、幸い梅雨の中休みにあたって、2日間ともよかった。バスでやってきたA君を松本駅でピックアップして、そのまま扇沢へ。どうしても黒部ダムをみたいと。土木関係の設計を生業としている彼はその理由を述べたがF君への対抗心は明らかだ。上がってゆくガスの合間に見える残雪の山に夢中になる様子も同じ。アルペンルートはそれほどの混雑もなく室堂に到着。1ヶ月前に比べると雪はすっかり解けて、雪の回廊は3mほどになっていた。その替わりみくりが池の回りを歩くことができて、そこでなんとライチョウのつがいに出会った。遊歩道のすぐ脇に、すっかり夏の色になったライチョウのつがいがえさをついばんでいた。もう一羽、みくりが池温泉の石垣の上でオスが縄張りを見張っていた。この時期はつがいになって縄張りを作る時期だ。扇沢にもどり、次は白馬のジャンプ台に上った。テレビでは見たことがあるが、来たのは私も初めて。あんなところから飛び出す人の勇気には脱帽だ。もとはといえば、罪人の罰だったという話を聞いたことがある。

その夜は、白馬で知り合いのMさんのホテルに泊めてもらった。アットホームなすてきな宿で屋上の露天風呂から八方尾根を眺め、おいしい料理をいただき、その日から始まったという蛍祭りに連れて行ってもらい、次の日は五竜スキー場の高山植物園で大展望と咲き始めた高山植物を堪能して、A君は帰っていった。

帰ったら、F君に早速報告するという。写真を見せながら口角泡を飛ばして自慢する姿が目に浮かぶようだ。他愛のないことを自慢し合った小学生の時とまったく変わっていない。50年近く経って昔の関係が復活したことは喜ばしいことだが、次は別々でなく2人一緒に来て欲しいと心から思う。

「槍ヶ岳山荘グループ創業95周年を祝う会」

2012年6月17日 日曜日

昨日、「槍ヶ岳山荘グループ創業95周年を祝う会」に行った。山岳センターは、長野県山岳協会と、穂苅さんが代表をつとめるNPO法人”やまたみ”が共同で運営している関係で招待状をもらった。松本駅前のホテル”ブエナビスタ”で行われ、映画を2本見たあとに祝宴。山小屋のオーナーの人たち、ガイドの人たち、山岳写真家の人たち、雑誌社の人たち、かって小屋に勤めていた人たち、行政関係の人たちなど200名ほどが参加した。私の席は山岳センターということで、行政関係のテーブルにあった。環境省、自然公園財団、森林管理局、松本市、安曇野市、隣は信州大学の先生。山岳センターの運営懇談会会長をお願いしている、ジャーナリストの菊地俊朗さんが挨拶で穂苅社長から依頼されて書いた「槍ヶ岳とともに」の話をされた。ちょうど菊地さんが書いた「北アルプスこの百年」を読んでいる最中だったので興味深く聞いた。

なるほどこんなに多くの人たちが山小屋を支えているのか、と改めて感じた。

日本に帰る

2012年3月7日 水曜日

3月5日。

錦鯉が泳ぐ池の周りの芝生をリスが走り回る。かってこの国の支配層が住んでいた邸宅が公園として解放されている。ガーデンオブドリームス。タメルの喧噪を離れて静かな庭でビールを飲みながら考える。2年前にここに来たとき庭の手入れをしていて英語で話しかけて来たネパール人は、自分の給料は6,000ルピーだと言った。私が飲んでいる缶ビールは200ルピー。この庭の入場料は160ルピー。2年経って物価と一緒に給料もあがったのだろうか。この庭と邸宅のように90年前に建てられた洋風の豪壮な建物があるかと思うと、昨日まで植林をしてきたタマン族の人たちは今も土の家に住む。カトマンズ盆地のあちこちに残る古い寺院や民家の柱に施された彫刻はすばらしい。どこに行っても人々はヒンズー教や仏教を信仰し至るところに神や仏の像があってお寺や祠がある。それはかってこの国に物質的にも精神的にも相当高い水準の社会が存在した証だ。それなのに今のこの有様はなんだ。この国はどうなっているのだろう。王制は廃止されたたが、3年前まで王宮だった建物の前は物乞いがいて、道路には、爆弾テロで爆破された現場のようにがれきが散乱している。そのことを誰も不思議と思わない。

この国に来るといつもこのことを考えて頭が混乱してしまう。山岳総合センターの準備で煮詰まっていた気持ちは切り替えることができたようだが、なんだか別の物を思い出してしまった。

ビールも無くなったし、それでは帰ることにするか。

植林の手伝い

2012年3月5日 月曜日

カトマンズからトリスリ

2月29日。夜中になんどか目が覚めた。まだ時差になじんでない。ネパール時間の6時まで待って起きた。今日やることは、4月にくる田村顧問から頼まれた、ランタン谷の地図を買うこと、安倍先生から預かって来たお金の両替、それにトリスリに持って行く自分の荷物のパッキング、だけ。まず荷物を振り分けて、それから「ちくさ」という日本人がよく使うレストランで朝食、帰りに地図を買った。2種類で5枚買うと言って2/3に値切った。ホテルに戻って今度は安倍先生お奨めの両替屋で日本円からネパールルピーに両替。あとは時間つぶしに街をぶらぶら。フジホテルはタメル地区という観光客相手の土産物屋などの集まった地区にある。タメルから南に歩くと細い路地が網の目のようにつながっていて、両脇には様々な店が品物を並べている。何でもある。本当になんでもある。リクシャと呼ばれる自転車でひく乗り物や、バイクがけたたましく警笛を鳴らしながら通り抜ける中を人が歩く。傾いた電柱に電線が絡み合ってぶら下がっている。およそ日本人がなじんできた秩序とか整然とした様とはかけ離れた世界だ。しばらく歩いているとめまいがしてきた。

3月1日。今日はトリスリに行く日。6時に起床。残していく荷物をフロントに預けて、ネパールティーを飲んでいると迎えの車が到着。トヨタのランクルだ。運転手だけと思っていたら日本語のわかるスタッフのナビンさんともう一人。ネパールではよくあること。チャーターしたつもりなのに知らない人が乗っている。タメルからリングロードに出て、トリスリに向かう道に入る。地図には高速道路と書いてあるが、道幅の半分くらいが舗装されているだけのがたがた道だ。大型トラックとすれ違う時はお互いに慎重になる。有名なカカニの丘から少し先のランパウワというところで一休み。ランタン谷の7,000m級の山が霞の上に浮かび上がっている。聞くとランタン・リルンだという。ジャガイモをカレーで煮たタルカリとゆで卵、ドーナツのようなパンを食べて30ルピー(日本円で約30円)。ここからトリスリまではひたすら下り。森は結構深くて沢には乾期の今でも水が流れている。水があるから作物は豊かだ。菜の花、麦、じゃがいも。トリスリに下るともっと沢山の野菜や果物があふれていた。カリフラワー、にんにく、たまねぎ、大根、にんじん、しょうが、ミニトマト。果物はバナナ、パパイヤ、みかん。トリスリで植林センターの統括、ロクさんが待っていた。日本語で大久保興業と書いた作業服を着ている。タカリー族のレストランで食事をして、今度はロクさんも同乗して植林センターのあるツプチェ村まで。幹線道路を外れて更に悪路。ここはトヨタのランクルが威力を発揮。30分でツプチェ村の入り口に到着。今度は森林センターの5人のスタッフが出迎えてくれた。今日は森林センターに泊まると思っていたら、ロクさんの家に泊めてもらえるらしい。自分でザックを担ごうとしたら、スタッフのラメシュさんが飛んできて背負ってくれた。畑のあぜ道のようなところを登っていくと、少し広くなったところに女性が数名いる。なんと私を出迎えているらしい。行くと首に花の首飾りを3つもかけてくれて、両手に持ちきれないほどの花をもらった。もう疑いない。安倍先生から連絡が入ったので、植林センター関係者が総出で私を出迎えているのだ。そっとしておいて欲しいのだが。植林センターにはミシン教室があって、そこには8名の女性がミシンの練習をしていた、というより私がくるのを待っていた、らしい。ミシンの上に縫っているものは載ってなかったのだから。これは大変なことになった。私はひっそりと水やりの手伝いをして帰ろうと思って来たのだが、どうやらそういう訳にはいかないかもしれない。

ロクさんの家は植林センターから20分ほど登ったところにあった。ロクさん夫婦の寝る隣の部屋に通された。少し休んで、家の回りを散歩でもしようと部屋から出ると、休んでいた植林センターのスタッフ5人が出てきて案内してくれた。ロクさんの家の回りは20年前の植林発祥の地で、あちこちに大きくなった木が森を作っている。スタッフはそれを私に見せたいらしい。2時間ほどもかかって標高差300mくらいを上がったり下がったり。そこら中に安倍先生の森があった。

3月2日。今日は、マネガオンの植林センター(標高1,000m)を見て、植林をしている一番奥の村であるカウレ村(標高1,600m)に登る。そこには植林センターと建設中のグンバ(お寺)があるという。

ネパールの人の食事は1日に2回だけ。朝はお茶を飲むだけで、一仕事した後の午前10時か11時頃一回目の食事、2度目は夕方に食べる。ロクさんは私のために、お茶とゆで卵とビスケットを出してくれた。それを食べて7時に出発。ロクさんと、ランバブさん、ラメシュさんと私の4人。昨日と同じく荷物は持ってくれて私は地図だけもって歩く。トリスリ川の右岸を上って、サラク川の橋を渡って、マネガオンへの登り道に取り付く。斜面に細かく作られた棚田のあぜ道を登っていく感じだ。20分ほど登ると植林センターの建物があった。裏側にまわると苗畑がある。種を直播きし、芽が出たらポットに移して大きくする。雨期の始め、数センチになった苗を植えるのだ。マネガオンはタマン族の村だ。ミンクマリさんというおばあさんの家の畑でも苗を作っていた。亡くなったご主人と一緒に植林に協力してくれているという。お茶と豆と油で揚げたパンをいただいた。

更に登る。道々会う人はみんな植林センターの人と顔なじみで遠くからでも声が掛かるし、こちらも話しかける。何を話しているかさっぱりわからないので私はナマステ(ネパール後の挨拶)と言うだけ。少し登ると車の通れる道に出た。10年ほど前に出来たらしい。タンダパニ(標高1,300m)では目もくらむ急斜面に松の木を植林したという。ぼろぼろの60度くらいの急斜面に小さな松が植えてある。この斜面で水やり作業をするには、ロープを付けないと危ないのではないかと思うくらいだ。水が少ないので4年でも30センチほどにしか育ってない。カルカレ、ディガオンと通り過ぎて、やっとカウレ村。ロクさんの家から3時間。植林センターの前ではカタと呼ばれる布を持った村の人たちが30人ほども待ち構えていて、首に掛けてくれた。歓迎とか祝福の意を表すときの習わしだ。お礼に日本から持ってきたお菓子を一つずつ配る。隣に建設中のグンバがある。茶色と黄色と白のきれいな建物だ。軒の下に電灯を並べるらしく、ソケットの取り付け作業をしていた。出来上がって明かりがともったらさぞかしきれいだろう。

スタッフのチェトリさんとナムラジさんが居て食事を作る。ご飯にダル(豆)のスープ、タルカリ、食後にミルクティーの昼食。一休みしていよいよ水やり作業に出かける。

スタッフの面々は一人ずつ水桶を持っている。30mほどのホースも引いている。植林センターから水平な道を10分ほど行ったところが今日の水やりをするところだ。去年の7月に植えた松が大きい物で20センチほどになっている。100mほど上の家から水をもらうらしい。スタッフのデペンドラさんがホースを引いて登っていった。やがてホースの先から水が勢いよく噴き出す。15リットルほど入る水瓶に2分ほどで溜まる。溜まった水を苗木にかける。根本の土が流れないよう手を添える。動作に植えた木への愛情を感じる。水やりはスタッフだけでなく、村の人が沢山参加する。子供たちも小さなバケツを持って参加する。水が間に合わなくて行列が出来る。待っている間はおしゃべりタイム。村の長老たちも出てきてなにやら話に夢中になっている。みんな楽しそう。斜面は急で重い水瓶を持って歩くのは大変だ。植えて5年目くらいまでは、5日か6日に1度くらい水をやらないと乾期にかれてしまうのだそうだ。水をやらないと活着率は0.5%、水をやっているとほとんど90%。3時間ほどで水やりを終えて植林センターへ戻る。別の場所に水やりに行った女性たちも戻ってきた。手にカタをもっている。びっくりしている私の前に女性たちが並んで、カタを捧げて歌を歌い、私の首にかけてくれた。私はどうしていいかわからず、手を合わせてナマステを繰り返すだけ。あとで聞いたら「あなたは日本から来て植林を手伝ってくれた。ありがとう。健康でいてください」というようなことを歌っていたらしい。お茶をもらって飲んでいると、今度は村にあるグンバの本物のラマ(僧侶)が来てカタをかけてくれて何度も頭を下げた。本当に困ってしまう。

3月3日。6時起床。昨夜、寝る頃になって一雨あったせいか、空気が冷たい。顔をあらって、グンバの周辺を散歩。自動車道路を上っていくと、道ばたの家から女性が出てきた。植林に来ていた女性だ。道で顔を洗っている女性は。歌を歌ってくれた人だ。10数件の家が並び学校もある。このあたりがカウレ村の中心か。心配したスタッフのランバブさんが探しに来たので散歩は終了。戻ってお茶をもらって出発。出発の時、5,6人の人が集まって別れの歌を歌ってカタをかけてくれた。これで50枚にはなったか。

カウレ村から1時間ほど下ったところで、道を左にとってチャンパニという部落に向かう。着いたのはトリスリ川を挟んだ対岸の眺めがすばらしい斜面。道の脇から湧いている水を木の皮の樋でうけて水瓶に溜める。水が少ないのでここも時間待ちとなる。村のひとが10名以上参加。女性がほとんどだ。男は勉強して仕事にいって畑仕事、女は食事の準備と薪集めをするのだとは、スタッフのランバブさんの説明。2時間ほどで終わって、植林センターへ下る。着いたのは登りにも寄ったミンクマリばあさんの家。ここで1回目の食事。タマン族の人の家の床も壁も赤土を水で溶いたものを塗りつけてある。靴を脱いで2Fに上がって食事をとる。チキンの入ったダル(米のごはん)バート(おかず)。いつもネパールに来ると腹をこわすのだが今回はすこぶる快調。

午後は、マネガオンの学校の下で水やり。今は使わなくなった道のあったところだから、それほど急ではない。村の人も沢山いて1時間ほどで終了。持ってきたお菓子を配って、写真を撮った。

次は、ここから1時間ほど離れたポケガオンに行くという。自動車の道とあぜ道を交互に歩いて行く。この辺りはチェトリ族が多いか。水やりをする斜面は畑が作れない急な斜面で、5年たった木の間に去年の7月に追加で植えた小さな苗がある。だからある程度藪になっていて傾斜もあって大変だ。ここも村の人たちが10人ほど参加。お菓子は終わってしまったので写真だけ。

1時間かけてマネガオンに戻る。みんなも疲れ気味。泊まりは植林センターでなく、ミンクマリばあさんの家になるらしい。

17時帰着。ダルバートの食事。2回しか食べないからなかなかおいしい。食事が終わったら何もすることがないから寝るだけ。私の寝るところは、2Fの祭壇がある部屋だ。タマン族は仏教徒だから祭壇には観世音菩薩の写真が掲げてある。赤土の床にむしろを敷いてその上にカーペットを敷いて掛け布団を出してくれた。暖かいからシュラフカバーはなくてよさそう。ところが寝てみると痛くて寝られない。持ってきたマットを敷いたらよくなった。昨日は床に毛虫がいたが今日は何もいませんように。

3月4日。朝4時ころ、ミンクマリばあさんのお経の声で目が覚めた。30分ほどお経を上げてまた寝てしまった。6時に起床。起きるとすぐに便意をもよおして外のトイレに行く。ネパールの人は紙を使わない。水で濡らした手で拭くだけ。紙を使うと詰まるから流さないで焼くように、安倍先生から言われている。最初は大いに抵抗があったが4日目となると慣れてくるから恐ろしい。1晩お世話になったミンクマリおばあさんの家を後にして眼下のトリスリ川対岸の、ベトラワティの街に下る。ベトラワティの街には安倍先生が養女にしたドウゥルガ・マヤさんの兄弟が住んでいる。上のシタ姉さんは金具屋を、次の姉さんのナニメさんは食料品店をやっている。シタさんの息子インドラさんの案内で牛乳パックの森に登った。安倍先生の意志に共感した長野や佐久の人たちが、牛乳パックをリサイクルした資金で苗を買って植林したところが20年経った今では鬱蒼とした森になっている。急なコンクリートで作った道を上ったところに小屋があった。スタッフのチェトリさんがここに泊まり込んで世話をしているようだ。下って今度は「母の橋」を渡る。トリスリ川は水量が多く対岸の行き来は容易ではない。15年前に、安倍先生がリードしてここにつり橋をかけた。これが「母の橋」だ。この痛み具合を見てきて欲しいと言われている。橋はワイヤーがゆるんで少し傾いていた。いくつかボルトのゆるんでいた箇所があったが大事に至ることは無いように思う。でも一度専門家の診断を受けてゆるんだ所を直し傾きも直したほうが良いのではないかと思った。

橋を渡ったところでカトマンズに行く車が来て乗り込んだ。これで植林の手伝いが終わる。

カトマンズ到着

2012年2月29日 水曜日

カトマンズのホテルに着いた。時間は2月28日の夜9時、ネパールと日本の時差は3時間15分だから日本時間では29日の0時過ぎ。家を出て2日半も掛かったことになる。2年前に来たときは、HISに頼んで航空券を買ったが、今回は自分で買ってみようとエービーロードという格安航空券のサイトで買ってみた。日本からカトマンズまでは安いのは往復4万1千円からあったが、問い合わせてみるとそんなのは売り切れていて、往復6万1千円、サーチャージや手数料などを含めて10万7千円というのが一番安かった。航空会社は、エティハト航空。聞いたことの無い名前だが、アラブ首長国連邦の国営航空会社で、名古屋からはるばるアラビア半島にある首都アブダビまで行き、そこでカトマンズ行きに乗り換えて、行った距離の半分も戻ってくるのだ。一番ポピュラーなタイ航空を使ってバンコクを経由してカトマンズに入るルートと比べると遠回りでばかばかしいが、空いた席をうまくつなげて格安で販売しているのだ。なるほど格安航空券とはこんな仕掛けになっていたのか。

名古屋を出たときは、乗客はわずかだったが、北京でどっと乗り込んできてほぼ満席。旅行というのではなく中国から中東の国々に出稼ぎにでも行くという雰囲気の人が多い。アブダビに着いたのは、28日、現地時間の6時。まだ暗い。時差5時間となっているが、位置的にはもっと西に寄っているのだろう。円形のモスクのような天井の待合ロビーで7時間待ってやっと出発。今度は中東の国々に出稼ぎに出ていて帰国するネパール人と、白人の旅行客で満員。ヒマラヤの大展望を期待したが、翼の上の席だったのとインドのスモッグと暗闇のおかげでほとんど何も見えないまま暗いカトマンズ・トリブバン空港に着陸。アブダビの金きらきんの施設に比べると全く貧弱。

ネパールはビザが必要で、空港で取るつもりだったが顔写真を忘れたことに気づいて名古屋でスピード写真を撮った。でもはさみが無いので顔が4つ並んでいるままだ。どうしよう。英語で審査官にはさみを貸してくれというには・・・、まずニッコリ笑って・・・、ん、そうだ手でちぎればいいじゃないか。急いでちぎろうとしたら、なかなかちぎれない。自分の番の直前でやっとちぎれてしわだらけになった写真とパスポート、申請用紙を提出。セーフ。ホッとしたのは一瞬。手に持っていたはずのフリースが無い!!そうだビザの申請書を書いた時か、写真をちぎった時に置き忘れたのだ。慌てていま出てきた審査官の前を通って申請書を書いた机に向かって走ったが無い。写真をちぎった辺りにも無い。走り回っている私に、列に並んでいた一人の白人男性が声を掛けてきた。「何をしている」「服を無くした」「緑と黒の服か?」「緑?そうだ」「それならあっちだ」見ると、別の係官の横の椅子に私のフリースが掛けてある。あ~ぁよかった。「サンキュー、サンキュー、ありがとう」

そういえば、30年前初めてこの空港についた時も、機内でビールを飲み過ぎた先輩が入国審査を待ちきれずトイレに行きたいと言ったら、そのまま審査なしで外に出してくれたことがあった。これがネパールなのだ。ちぎった写真だろうが、一度通った外国人が勝手に走り回っていようが問題ではないのである。

外に出るとフジホテルの車が待っていた。これで安心!!

フジホテルは快適だ。無線Lanを介して自分の家にいると同じ感覚でインターネットにつなぐことが出来た。

ネパールへ

2012年2月27日 月曜日

旅に出ることにした。

行き先はネパール、目的は植林のお手伝い。

登山の大先輩で、穂高町に住む医師の安倍泰夫先生はネパールの首都カトマンズから西に50kmほど行ったトリスリというところで、20年以上も前から植林を続けている。ヒマラヤ登山の帰りに通りかかり、この村の少女を養女にしたことがきっかけだ。もともと小児科医で、カトマンズの病院で活動したこともある先生は、ネパールでは乳幼児の死亡率が高くその原因が悪い水を飲むことによる下痢だと知って、きれいな水を取り戻すために植林を思いついた。(詳しくは、安倍先生の書かれた、「ネパールの山よ緑になれ」春秋社を読んで見てください。1冊買うと、800円が植林の費用になります。)

私は前から、会社をやめて自由な時間がもてるようになったら、先生のお手伝いをしたいと思っていた。ネパールは岳人あこがれの地だ。私はネパールの山に2回登ったことがある。青い空にそびえる白い峰峰の壮麗な様は今も目に残っている。その地で貧しいが自然と寄り添うように暮らす穏やかな人々のことが私は好きだ。安倍先生がネパールから養女のドウゥルガ・マヤさんを連れてきて、今は亡くなった奥さんと松本駅前でカレー屋を始めた時は食べに行った。本も読んだ。安倍先生は仏様のような人だと思った。私が委員長を務める長野県山岳協会自然保護委員会では、今年の計画に安倍先生のお手伝いをすることをあげた。結局、山岳協会の田村顧問のご尽力で、4月末から5月にかけて、安倍先生と一緒にトリスリに行って植林の手伝いをし、その後ランタンの山々が見えるゴサインクンドまでトレッキングしてくる計画ができあがった。1993年に登ったガンチェンポが見えるところで私も行きたいと思ったが、その時期2週間の休みが取れそうもない。しかたないので、下見も兼ねて一人でも行って植林の水やり作業を手伝ってこようと思ったのだ。

ところで今の私には自由な時間があるようで無い。会社をやめて1年と3ヶ月が経って、ますます忙しくなってしまったのだ。自分で始めた登山学校 岳遊舎は月に2回ほどの講習会をやっているが、この運営が予想以上に手がかかる。お金をもらうこと、人にものを教えることがこんなに大変なことだったかと、見通しの甘さを嘆いてももう遅い。加えて長野県山岳協会とNPO法人信州山岳ガイド協会やまたみが組んで、大町にある県の施設、山岳総合センターの指定管理者に応募したら他に応募者がなくて我々に決まってしまった。言い出しっぺのような立場の私は行きがかり上その準備担当になり、さらに4月からは常勤職員として通勤することになってしまった。昨年の6月頃から以降、私の寝ている以外の時間の半分はこのことに費やされている。

会社をやめる時は、登山学校で月に2回程度の講習をやって、頂いたお金で合間に自分の行きたい山に行けばいいじゃないか。それが出来たら最高だと思っていたのだが、現実はそんなに甘くなかった。講習会のテキスト、要項、計画書作りに追われ、6月以降は指定管理者の応募書類を作り、山岳総合センターの来年度の講習計画を作り、と息つく暇もない慌ただしい日々に流されっぱなしで1年以上が経ってしまった。会社に勤めていた時、このくらい仕事をしたら私のサラリーマン人生は違うものになったのではないかと思うくらいだ。それで岳遊舎の1年目講習も残り4回となり、山岳総合センターの準備もほぼ形が出来た。次は山岳センターの運営に心を入れる段になったところで息切れしてしまった。朝の2時間くらいは良いがその後は頭がボーッとして考えがまとまらない、アイディアが出ない、やる気がしない。これはまずい。なんとかしなくてはいけない。

なんでこんな大切な時期に行くのか、一人で行ったって仕方ないだろう、収入もないくせに遊びにいくなんてもってのほか等々、大方の人のごもっともな意見や一部の人の温かい罵詈雑言やらを無視してネパールに行って煮詰まった心を元に戻してきたい、これがもう一つの目的だ。

松本からバスに乗って、名古屋から名鉄に乗り換えて中部国際空港についた。会社に勤めていた時は、よくここから中国やフィリピンに出張に出かけたものだ。3年ぶり。

今日をいれて9日間の旅の始まりだ。